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ながい話

どうもギタリストは「好きになったらなんでも自分の楽器で弾いてみたくなる」傾向があるようだ。

「これをギターで弾いちゃうのかー!?」と思うような作品も、弾いてしまう。そこには彼、彼女の作品に対する並々ならぬ愛があり、「そうきたか!」と思わず膝をポンと叩きたくなる絶妙なアイデアに脱帽、そして感動する。

この傾向は今に始まったことではなく、昔からたくさんのギタリストが行ってきた。たぶん、行わずにはいられなかったのだろう。

そして、そういった作品も聴いて、新たにインスピレーションを受けた作曲家が今度はギターのための作品を書いてくれるようになった。

だから今、クラシックギターのレパートリーは幅広く、豊かだ。

オリジナルがギターのために書かれていない作品をあえてギターで弾く、とはどういうことだろうか?単純なことだが、まず、好きじゃなかったら弾かない。その作品を真剣に愛しているからこそ、取り組むのではないだろうか。

また、ひとつ興味深い話を聞かせてもらったことがある。以前現代の作曲家の方々が集まる会に参加させて頂いたことがあった。その中で一人の作曲家の方が、「ギターは(作曲家にとって)敷居の高い楽器でもあるんですよ」と語られた。どういうことかと言うと、ギターはこれだけ世間に広まっている楽器であり、その音に対するイメージは容易に出来るが、いざ作曲となると、6本の弦を19フレット(あるいはそれ以上)まで使えて、弦ごとのチューニングも変更可能であり、運指や特殊奏法など「実際に自身がギターを弾けないと書けない」要素が他の楽器の作品を書く場合と比べて多い、ということらしかった。

これは大変なことだと思った。ギタリストも作曲家も絶対にお互い助け合わなくちゃ!と思った。もし作曲家の方の頭の中で鳴っている音がギターの音であるのなら、ギタリストとしてはそれだけでものすごく嬉しい。だから「こんなことを考えているんだけど」と言われたら、ギタリストは必死に考えて、「こんな可能性もありますよ!」とアイデアを渡すと思う。

ギターという楽器の可能性を本気で信じている人達の、地道で笑っちゃうくらいひたむきな取り組みは、これからも続いていくのだと思う。そして私は、その長い歴史の一部でありたいと思う。