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音の井戸

今月ベルンで弦楽四重奏と共演して一番感動したのは、彼らとのプロべ(合わせ)だった。

今回演奏した五重奏はコンチェルトではないのでソリストとして最後の合わせだけ参加するのではなく、他の4人と共に初回から合わせに参加した。

プロべをはじめてみて、演奏はもちろんなのだが合わせのすすめ方が合理的で、なおかつその雰囲気がとても「気持ち良い」ことに驚いた。そして自分なりにどうしてだろう?と考えた。

はじめ、言葉のせいかな?と思った。5人中3人はスイス人だったが、第一ヴァイオリン奏者がヴェネズエラ出身でドイツ語より英語の方が慣れていたため、合わせの際の言語は誰の母国語でもない英語を使った。母国語でない言語を使うとき、人は自分の意図が相手に正しく伝わる言い方になるようそれなりに考える。同時に余計なことを言わない(言えない)から自然と無駄のない会話になる。だからだろうか?と思った。

でも、それだけではない気がした。皆言いたいことは全部言っている。性格も結構バラバラだと思う。でもその場が決してネガティブにならない。もっとよく観察していくうちに、ああそうか、と思った。全員に共通していることとして、何か意見を言う時、そこに自分の感情を混ぜないという単純なルールを守っていることに気がついた。このルールはとてもポジティブになれる。彼らがみているのは作品で、相手も含む彼ら自身ではない。単純だか決定的な違いだ。そして、時に踊るように、時にあやとりのように互いを支えているのを感じた。

もう少しイメージを書いてみたい。今回の合わせで5人はいつも円形の輪になって座っていた。ちょうど皆で井戸を囲むような形だ。皆はその「井戸」の中心に向かって演奏する。各々の音はその音の井戸の中で互いに溶け合い、「全体」となって井戸から湧き上がる。その「湧き上がったもの」を皆でみつめ、話し、試していく。プロべとして当たり前の作業なのだが、今回の合わせを通し、私はその作業を初めて視覚化して感じさせてもらった気がした。そのことが私にはとても嬉しかった。そして、いいアンサンブルだな、と思った。

ちなみに今回演奏したテデスコ五重奏(Quintette Op.143)の2楽章には、何かが深い井戸の底から現れ出るような雰囲気のモチーフが出てくる。テデスコはこの作品を書いた10年後、J.R.ヒメネスの詩にあてたギターと朗読のための作品「プラテーロと私」を書いている。私はその中にある「井戸(ポソ)」という詩を思い出した。