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10年目のガイジン

ベルン州立音楽学校で教えはじめてから来年で10年になる。自分でもびっくりだ。

この10年、音楽学校を通して実に様々な国のルーツを持つ子どもたちと出会った。スイス、フランス、イギリス、ポルトガルといった西ヨーロッパの国々はもちろん、ロシア、コソボ、アフガニスタン、エリトリア、ブラジル、ペルー、オーストラリア、タイ、ベトナム、韓国、そして日本。彼らは100パーセントAusländer(外国人)であったり、半分だけスイス人だったりした。みんなとりあえずの共通言語であるドイツ語を話し、この国で「ガイジン」の私も彼らとドイツ語で話す。自分がアフガニスタン出身の生徒の父親とサシで口論するとは思ってもみなかったし、ペルー出身の子に南米のクラシックギターのレパートリーを教えることになるとは考えてもみなかったけれど、 レッスンで1対1で向き合ってみるとみんなすごくいい子達だった。それぞれのタイプは違うのだけれど、なんというか皆とても子どもらしいエネルギーを持っている。たまに、おおそういうアプローチでいくか笑!と教えている私の方が教わることもあったりして、笑ってしまう。 そしてここまでくると「国」についてなどどうでもよくなってくる。教えていくうちに「〜人の何々君」という概念は消え、ただの「何々君」になる。私が見ているのは彼らの「国」ではなく、彼ら「自身」だ、という当たり前のことに気付かされる。

そのむかし、私は大学で「異文化交流」「多文化共生」について学んだ。そのとき教授から「相手をすべて理解できるとは思うな。」と言われたことがあった。当時の私には意味がよくわからなかったけれど、今この言葉が自分にとってけっこう役に立っている気がする。音楽学校で子供たちを教えていると、私がレッスンでみているのは彼らのほんの一部でしかないのだ、とつくづく感じる。私が彼らに教えられるのはギターだけで、そのバックグラウンドを知り全て理解することは私にはできない。でも、それでいいんじゃないかと思う。国が同じであろうとなかろうと、相手を全て理解できるなどと思うのは、ある意味「おごり」である気がする。

ときどき「国」ってなんだろう?と思う。手にとったり目で見ることはできないけれど確実にある、不思議なヴェールのようだ。私自身この国に来て以来、ずいぶんこのヴェールにお世話になったり、逆にぐるぐる巻きにされたりした。ごく簡単な日常生活の中でも、この国では私が日本から持ってきた「常識」はそのまま通用することの方が少ない。自分と自分の国が否定されていくような気がして悲しくなったりもしたが、最近ふと、本当はそういうことではないんだ、と思いついた。この国の人たちは別に私や私の国を否定しているわけではない。とりあえずお互いの持っているものが違っていて、でも一緒に生きていくために「じゃあどうしようか?」ときいているだけなのだ。だから私は「私の国の常識」ではなく「私のしたいこと」をできるだけ具体的に相手に説明していかなければならない。面倒くさいけどこの作業をやっていくうちに話がだんだんスムーズになっていった。それに、私が「日本では〜」などと強く言うとき、それは往々にして自分より大きな存在の「国」を盾に、そこにすがりついていくことしかできない自分の弱さを隠そうとしていることが多い。目の前にある問題を自分ではなく「国」や「文化」のせいにするのは簡単だ。でもそれでは何も解決しないし、何も生まれてこない。相手がみているのは私の国やバックグラウンド云々ではなく、今この瞬間に私がとる行動なのだ、と気がついたとき、何かがストンと落ちた気がした。

何の縁があってかスイスという国でガイジンの私からギターを教わることになった生徒へ。あなたはギターというめっちゃ良い楽器を選びました。おめでとう。それについては先生は全力で教えます。いろいろ教えてくれてありがとう。これからもよろしく。