しつけ糸をたどって

ハーモニカ奏者の大竹英二さんと遠距離共演録音をした。今、動画を詩画家の本間ちひろさんが作ってくれている。

今回の録音では多重録音の手法と「しつけ糸」のアイデアを用いた。

はじめにギターでカウントをとるための刻み(バッキング)伴奏を録音し(仮縫い)、大竹さんにはこの伴奏音源を聴きながらハーモニカラインを録音して頂いた。その後大竹さんから送られてきた音を聴いて、もう一度ギターでいくつかの微調整と余計な刻みを抜いた伴奏を新しく作り直し(本縫い)、最終的には一番最初のギター音源を抜いて完成させた。

3人のメールでのやりとりでも「この音源はあくまで仮縫いです」とか、「しつけ糸としてお考え下さい(→細かいことは気にせず自由に演奏して下さい)」といった言葉を使った。それほど裁縫が得意なわけでもない自分がこんな表現を使うなんて可笑しいな、と思いつつも、この手法で録音し、完成させた。

ところが数日後の夜、あ、と思った。真っ暗な夜の深い紺色の中で、白く縫い付けられたしつけ糸を自分はかつて本当に見たことがあった、ということを思い出したのだ。それは、祖母のしつけ糸だった。

祖母はお着物が作れる人だった。子供のころの浴衣はすべて祖母が仕立ててくれていた。長い竹尺で寸法を測り、まだところどころマチ針のついた着物を何度か着せられたのち、本縫いが終わるとそれまでつけられていた白いしつけ糸が取られる。浴衣の袖の先に付けられた白いしつけ糸がしゅーっと抜き取られると、そこはすでに着物と同じ紺色の「本当の」糸で丁寧に縫いつけられていた。

ああ、あれだったんだ、と思った。あんなにくっきりと覚えていたことを、私はすっかり忘れていた。遠い彼方の記憶は時にイメージとなって自分の中に再び現れるということを聞いたことがある。今回、私は知らないうちに祖母からアイデアをもらっていたんだな、と感じた。

さて、今回録音した曲のタイトルは「Summer Valentine」、大竹さんが作曲された曲だ。98歳まで生きた明治生まれの気丈な祖母が聴いたらなんと言っただろうか。亡くなった人のことは本人にしかわからない。でも、新しいものを決して疎まない人だったから、笑って聴いてくれるかもしれない。

音だけきいたら

スイス建国記念日の音楽のお祭りで演奏することになった。ツーク(Zug)という街の企画で、街中の様々な場所で音楽を演奏してお祝いするらしい。「何を演奏しても良いけれど1曲だけスイスの曲を演奏して欲しい」という条件だったので、スイス国歌を歌とギター用にアレンジすることにした。スイスの国歌にはもともと多声的な楽譜があり、そのまま演奏してもキレイなのだが、今回はせっかくなので「クラシックギターで伴奏するならこう弾くよ」というアレンジにした。ザ・クラシックギターな奏法を入れた「国歌」はオリジナルとは少し毛色が違うが、弾いていて楽しい。

正直自分が外国の国歌を伴奏することになるとは思わなかった。でもこれも何かの縁なので、この国の国歌について少し調べてみることにした。公用語が4つあるスイスでは国歌のメロディは1つだが、歌詞は言語ごとに4バージョンある。つまり、音は同じだがみんな全然違う言葉で歌うのだ。そもそもスイスでは自分たちの国の呼び名でさえ地域ごとに違った言い方をする(スイスSuisseはフランス語圏での呼び名、ドイツ語圏ではシュヴァイツSchweiz、イタリア語圏ではスヴィッツェーラSvizzerra、ロマンシュ語圏ではシュヴィツラSvizra)。なので当然といえば当然なのだろうが、面白いな、と思った。もしかしたらこの国の人たちは歌詞の「言葉」ではなく、メロディの「音」を聴くことで自分たちの国歌だということをお互いに感じ合うのかもしれない。

さて、今回の演奏のために即席でデュオ名が必要になった。二人とも日本人なので日本語の名前にしよう、ということになり、あれこれ言葉を探した。そして、それぞれの単語が現地の人にはどうきこえるのかを知るために、「日本語のわからないスイス人(=夫)」に「音だけ聞いたとき、どのコトバが良いと思う?」ときいてみた。けっこうお洒落なかっこいい言葉もあったのだが、彼が最終的に選んだのは「トモ(Tomo)」と「キノコ(Kinoko)」だった。やっぱりガイジンの感覚はわからないわと思いつつ、名前はDuo Tomoにした。


 1. Augst Feier in der Stadt Zug

https://www.zug-tourismus.ch/de/aktuell/1-august-feier



楽譜をつくる

オンラインで購入できるソロギターアレンジ譜を作った。作曲家とメールを通して校正作業をしながら、ふと、そのむかし音楽出版社で楽譜校正の仕事をさせて頂いた時のことを思いだした。

様々な楽譜を出版するこの会社では、毎回ひとつの楽譜に少なくとも3人の校正者がついていた。

校正者は原稿コピーや仮印刷された楽譜の中の修正すべき箇所に、手書きで赤色の文字(や記号)を書き込んでいく。 楽譜に長い文章で説明を書くのは相手にとって読みにくいだけなので、できるだけ記号や数字だけできちんと意味が伝わるよう書いていく。

初めてこの作業をしたとき、校正をする人たちが専門知識を持っていることはもちろん、みんなとてもわかりやすい「綺麗」な文字を書くことに驚いた。五線譜やTAB譜はこまかく、書き込む数字や音符が数ミリずれただけで正しい情報が次の校正者に伝わらなくなってしまう。だからみんな自然と丁寧に書き込むようになるのだが、ある時TAB譜に書き込まれた赤い数字がはっとするほど綺麗で、思わず観入ってしまった。「校正」というと単に「間違い探しをする人」と思われるかもしれない。でも楽譜に真剣に向き合っている彼女が書いた数字は美しく、ああこれは彼女の楽譜へのリスペクトなんだ、と思った。そして、そうやって何回も、何人もの目を通して作られた楽譜には、出来上がったときどこかソリッドな印象があった。赤い文字は完成したら見えなくなるのだけれど、見えないだけで、ちゃんと楽譜の中でいきているんだよな、と思った。

今、いろんな方法で「楽譜」が手に入る。従来通り紙に印刷されているものもあれば、ネット上からダウンロードできるものもある。媒体はなんであれ、楽譜は音楽を記録する手段である。なんで記録するのだろう。自分のためだろうか。記録しないと消えてしまうからだろうか?いろいろ考えてみたが、結局のところ「楽譜をつくる」のは、その音楽を「いつか自分以外の誰かが弾けるようにのこしておく」ためなんじゃないかな、と思った。

誰がどこで、その楽譜を必要とするのかはわからない。いつまで経っても来ないかもしれないし、ようやく誰かが楽譜を手にとったとき、もしかしたら自分はもうとっくにいなくなっている可能性だってある。それでも作って、いつか誰かが「弾きたい」と思ったときにいつでも弾けるよう、ニュートラルな記号を使ってのこしておく。なんてロマンチックなんだろう、と思った。まるで時空を超えて、みんなでせっせとタイムカプセルを作っているみたいだ。笑っちゃうけれど、でも、それって素敵だな、と思った。

 ソロギターオンライン楽譜
「捨ててよ、安達さん。」

-throw me away, Ms. Adachi-  作曲・侘美秀俊、ソロギターアレンジ・日渡奈那

五線譜(運指付き)https://store.piascore.com/scores/67082

TAB譜 https://store.piascore.com/scores/67103

「捨ててよ、安達さん。」ソロギター・ヴァージョン演奏動画
https://www.youtube.com/watch?v=xjZzqTnq5k0

ほんまなひと

およそクリエイティブな人とは、物事をポジティブに受け、地味な作業にも手間を惜しまず、イメージがカタチになるまであきらめない人のことを言うのではないかと思う。

ほんまちひろという詩人はそういう人だ。この春私が日本に帰れなくなったことを知った彼女から「一緒に朗読と音楽の動画を作ろう」と提案された。

そのとき彼女がなぜ今なのか、について「だってやろうと思えば今までだって作れたんだよ。でも作らなかった。今この状況をきっかけにしなきゃ。」という主旨のことを言った。ああ本当にそうだな、と思った。そして私が答えた時にはすでに彼女の中にはしっかりとしたイメージが出来上がっていた。

遠隔録音について、当初私は版画の多色刷りのように一つの画像を録音してから重ね録りしていく多重録音アプリを使おうと思っていた。しかし彼女は「お互いの息づかいをきいて同時に録音していきたい」と言った。つまり遠隔ライブ録音だ。高音質で遠隔地でも同時録音ができるものを探して色々なツールを試してみたが、残念ながら2020年5月上旬の時点の自分達には見つけられなかった。そこであれこれ考えた末、SNSビデオチャットに繋いだ携帯電話にイヤホンをつけてお互いの音を聴き(ライブ)、同時にその様子をビデオカメラで撮り(画像)、マイクをつないだPCでお互い自分の音をそれぞれ録る(高音質録音)という、技術的に進んでるんだか遅れてるんだかわからないやり方で作っていくことになった。使っているものはデジタルなのだけれど、限りなくアナログなことをしている気分になった。そしてこれが本当に機能するのかもわからなかったけれど、でもまぁ彼女ならなんとかするだろう、という安心感があった。7時間時差のある自分たちがお互いの声と音をきいて一つのものを同時に作ろうとしている、というのは面白く、なんだか嬉しかった。

撮り終えた後の編集も彼女はすごかった。いつのまにそんなことができるようになったのかわからないが、「出来たよー」と完成データが送られてきた。自分自身の経験から考えてもどれだけ大変な作業だったろうと思うのだが、彼女にはどこかそういった作業ですら嬉々としてやってのけてしまっている感がある。

大学時代、彼女と最初に作った絵本は英語で書かれたアルファベットの詩を入れたCD絵本「ABC Book」だったと思う。小さなスタジオでタコの歌に合わせて彼女がおもちゃのハンドベルを楽しそうに鳴らしていたのを思い出した。たぶん、この軽さが大事なんだと思う。手間を手間とも思わない彼女をみて、やっぱりすごいな、と思った。

さて、今回の作品では彼女はもともと絵を担当していたので「絵・本間ちひろ」となっている。ここではせっかくなので彼女の詩画集「いいねこだった」(出版/書肆楽々)より3つ詩を紹介しようと思う。彼女はこの作品で2004年第37回日本児童文学者協会新人賞を受賞している。

 

        ハリネズミ

あいしあうはりねずみ

  きをつける

    きずつけないように

あいしあうはりねずみ

きずつけあってしまう

  きをつけても            

 

          多分無理 

   国際電話で

ふきのとう ふき味噌の

    おいしさ

   説明すること

                         

          平穏主義 

平和というのは難しすぎるかもしれないけど

とにかく、もう少し穏やかに争ってください   

 だって、わたしの未来の恋人が

どこにいるのか わからないんですもの ね

 

本間ちゃん、ありがとう。


「ふたりのたからもの」動画
(文・山本優介 絵・本間ちひろ 西村書店)

朗読&ギター
https://www.youtube.com/watch?v=DStaVwGJ9nc
ギターのみ版
https://www.youtube.com/watch?v=66B3hWctcnk
朗読&ギター(英語字幕付き)
https://www.youtube.com/watch?v=NFBiqqcazqc
ギターのみ版(英語字幕付き)
https://www.youtube.com/watch?v=8GlGO6enrf4

いびつな星座

音楽学校の授業がオンラインに切り替わってから5週間が過ぎ、先日教師たちの意見交換が行われた。その中に「オンラインレッスンでは教師-生徒間の縦のつながりは可能だが、生徒どうしの横のつながりが少なくなっている」という指摘があった。

ギターは基本的に一匹オオカミ的なところがあるから無理に仲良くする必要はないと思うけれど、それでも生徒たちは発表会やアンサンブルを通してお互いのことをなんとなく知っているし、普通の学校も閉鎖して友達にも会うことができない今、何かつながりを感じられるのはいいことかもしれない、と思った。そして唐突だが「Zeig deine Gitarren-Hits(きみのギターヒットを聴かせてくれ)」という企画を思いついた。

生徒に自分の好きな曲を教えてもらい、それを私がまとめてクラス全員が聴けるようにメールで一斉に送るという単純なアイデアだ。このさいジャンルは関係なし、唯一の条件は「曲の中でギターが使われていること」にした。

はじめてみて、これは結構責任重大だぞ、と感じた。子供達が「この曲が好きです」と曲のタイトルを伝えるとき、その表情が一瞬真剣になるのがPCの画面を通してもわかった。

とても大切なもの、そして大切に扱わないと一瞬で壊れてしまうものを託されたような気がして、「ありがとう、大事に聴いてみるね」と伝えた。

「音楽は聴かない」と言う子もいた。じゃあまとめたものを送るよ、と伝え、親へのメールか、彼の携帯どちらに届けたらいい?と訊いたら「自分の携帯がいい」と言った。絶対届けよう、と思った。

さて、星の数ほどあるネット上の音楽動画の中から彼らが持ってきてくれた曲はじつに様々だった。静かなラップがあるかと思えば、おおこんな古い曲聴くのね!と私がびっくりするような曲、女の子パワー全開なポップや洒落たジャズ調、ヘビメタロックまで、確かに全部「ギターが入って」いた。それは私にとってすごく新鮮で、この子の頭の中ではこんな曲が流れていたんだなぁと感動すると同時に、ああ私は全然わかってなかったんだな、と思った。

曲をまとめることに関しても、はじめ「聴きやすいようにカテゴリーに分けてあげよう」とか「コメントつけてあげなきゃ」とか考えていた。でも聴いていくうちに、そういうことじゃないんだ、と気がついた。もともと統一性を求めているわけじゃないし、それをしてしまうと何かが崩れていく。このままで十分だよな、と思った。もちろんレッスンでは曲のコード進行など教えていくことはできるけれど、今は私が野暮なコメントや枠を作るのではなく、ただそのままを聴けるようにして送るのがいちばんのリスペクトである気がした。

昨夜この「ヒット集」作業をすべく並べた曲を通して聴いていくうちに、なんだか泣けてきそうになった。オンラインレッスンではやはり音質等に限界があることを痛感したのも理由のひとつかもしれない。そして何度も聴いていると、ランダムに並べたはずなのにそこにある種の「つながり」を感じ取ろうとしている自分がいることにも気がついた。鋭いもの、鈍い光を放つもの、つなぎ合わせてみたそれは、いびつな星座のようだった。

そして本日(4月29日)、スイス政府は新型コロナウイルスに伴う行動制限措置の段階的緩和を発表、5月11日より小学校の再開と同時に音楽学校が再び校舎で授業をすることが許可された。発表を聞いて、それまで張りつめていた全身の力が抜けていくのを感じた。再び「通常」になったあとどのような状況になっていくのかわからない。でも私たちは次の段階を試していかなければならない。

この音源を早く届けよう。そしてこれは一回限りで充分だ。次に全員に会うときは、本当に会うんだ。

ことばの熱量

スイスで学校閉鎖が行われてからちょうど1週間が経った。

先週金曜日、教室に学長がやって来て「スイス政府が閉鎖を発表した。6時までに全員音楽学校から退出しなければならない」と告げられた。あわてて残りの生徒に連絡を取り、学校を出た。

それから一週間。建物自体は閉鎖したがレッスンは続行することが決まり、具体的な方法は自由に決めてよいとされたので、自分が考えたアイデアと今後の流れを生徒に一斉メールしたあと、一人ずつ生徒(のご両親)に電話をかけていった。

私にとって「電話」はけっこう勇気が要る。相手の顔が見えないし、自分のドイツ語がどれだけ理解されるか不安になる(普段生徒が私を理解してくれているのは、彼らの素晴らしいイマジネーションとギターのおかげだと思っている)。でもこの状況でそんなこと言ってられないのでとにかくかけていった。 「Wie geht es Ihnen?(お元気ですか?)」という普段から使う挨拶の言葉が、今あいさつ以上の意味を持っていることに私も相手の方もなんだかおかしくて笑ってしまった。「いやぁおかげさまで元気ですよ!」「メール読みました。いいアイデアですね」「先生も大変だと思いますが頑張って下さい」と、皆すごくポジティブに対応してくれた。ほんとにちいさな言葉なのだけれど、それぞれに「ことばの熱量」のようなものを感じて、胸が熱くなった。

それからは家でビデオを作ったり、ネットレッスンの準備等で毎日が過ぎていった。ビデオはレベル別に課題曲を提示して演奏、ステップごとに解説したごく短い映像を数本作り、生徒たちに好きな曲を選ぶようメールで送った。同じ空気を共有できない「映像」は、集中して観られる時間が限られている。必要最低限の情報をいかにわかりやすく伝えていくのか、様々な方のビデオを観て勉強させていただいた(←必要に迫られないとやらない自分はこんなことがなかったらずっと勉強しなかったんじゃないかと思う)。あと、映像を観ることで自分自身についても 色々気づかされた(あーまた余計なこと言ってるよ私!とか、もっとドイツ語の発音気をつけなきゃ汗、とか笑)。 ときどき外から見るのって大事だな、と思った。

来週からネットレッスンが始まる。いろいろ限界はあるが、自分が今いる状況での最善策を考えていこうと思う。

春のにがみ

春になると苦いものを食べたくなる。

ふきのとうはにがい。子供の頃、母や祖母や妹と一緒に摘んだつくしも、摘むのは好きだったけれど子どもの私にはやっぱり苦かった。それなのに大人になった今、無性に食べたいと思う。べつに何十個も食べたいわけではない。でもあの苦味が懐かしい。

料理の世界では苦味も使い方次第、量によってはある種の「隠し味」になると考えられているらしい。全体の中での苦味のバランスを上手に扱えるようになると、「にがい」は「美味しい」になるのかもしれない。

この春バーゼルと日本でフランク・マルタンの「ギターのための4つの小品(1933)」を演奏する(Frank Martin (1890-1974) “Quatre pieces breves pour la Guitare“)。 マルタンはスイス人の作曲家で、この作品はそのむかし東京国際ギターコンクールの課題曲にもなっていた。シンプルで調性もあり、決して難しい技術が必要とされるわけではないのに、楽章ごとに確固としたコンセプトがあり、そこから生まれる音楽がおそろしく悪魔的で美しいことに衝撃を受けた。タイトルのとおり4楽章あり、何かにひきのばされていくような12音技法によるメロディからはじまる「プレリュード(Prélude)」、教会旋法(これはリディア・スケール)を使った美しい「アリア (Air)」、当時の時代背景から自ずと推測される「嘆き(Plainte)」、そして最後に悪魔的にすら感じる躍動感を持った楽章「ジーグのように (Comme une Gigue)」で構成されている。ギタリストの中でも好き嫌いがはっきり分かれるこの作品を、何故だかわからないが当時の私は無性に好きになってしまった。同時に自分の知識に限界を感じ、留学したいと考えるようになったのもこの曲あたりからだった。

春にふきのとうが食べたくなるように、長いながい時間を経て再びこの作品を演奏できることが、今の私にはすごく嬉しい。そして、少し苦味のある作品が自然に聴ける、聴きたいと思えるプログラムにするにはどうしたらいいのか、私はずっと考え続けていきたい。

 

 

(春のコンサート情報)※新コロナウイルスの影響により中止となりました。誠に申し訳ございません。 

バーゼル(スイス)

3月26日(木)19:30開演 クライネス・クリンゲンタール博物館ホール

Ensemble „B“ Kammermusik Konzert   詳細

 

日本

4月15日(水)19時開演 杉並公会堂小ホール

アンサンブル・バジリア「吟遊詩人の歌」 詳細

 

お問い合わせ

T&N企画 03-4477-5654 / 070-3871-0755   info@tandn-plan.jp

瞳をひらいて聴く

また通奏低音についてリュートの今村泰典先生にご教授頂いている。この春ヘンデルのドイツアリア「Meine Seele hört im Sehen(私の魂は瞳をひらいて聴く)」(HWV207)という曲 を歌とフルートとギターで演奏するため、通奏低音のリアリゼーションが必要になったからだ。はじめてタイトルを見たとき、なんてすてきな言葉だ、と思った。そしてその曲はさらに素敵だった。

この曲は春の歌だ。大地に溢れるすべてのものが春の訪れを喜び笑っている、そしてその目に見える自然の「ことば」をいま私の心は聴いている、という意味の詩が歌われる。これは是非とも演奏したい、と思った。

今回は歌とフルートが入っているのでリアリゼーションはわりとシンプルになるはずなのだが、それでも何日もかかってようやく完成させ、PCの浄書アプリで清書したデータを先生に添削していただくべくメールでお送りした。きっとまた間違いだらけで赤(ミスのある部分は赤い文字や音符でご指摘頂いている)がいっぱい入って返ってくるんだろうな・・・汗、とか考えていると、ものの数時間で(!)先生は返信して下さった。データを開いて、びっくりした。それは、「白」かった。

7ページぶん(歌もフルートもあるから長くなる)の楽譜に、赤が「2つしか」なかったのだ。一瞬自分の目を疑った。そして、あまりの嬉しさに胸がいっぱいになり(これは自分にとっては今までの中で最高記録だった笑)、なので記念にその「白い楽譜」の写真を撮った。それくらい、嬉しかった。

もちろんこれで作業が終わるわけでは到底ない。いま楽譜が「白い」のは、あくまで「ハーモニーは合っている」というだけのことで、これから細かいディテールについて検討していかなければならない。私はようやくその作業のスタートラインに立っただけだ。それでもやっぱり嬉しかった。

今朝のスイスの気温はマイナス4度だった。外はまだ寒い。ただ、陽射しは明るく気持ち良い。よくわからないけれど、自然というものは見えなくてもずっと何かの準備をしているらしい。私も準備をしなくてはいけない。春が来るのだから。

 

春のコンサート情報 ※新コロナウイルスの影響により中止となりました。誠に申し訳ございません。 

 

3月26日(木)

Ensemble „B“ 室内楽コンサートMuseum Kleines Klingental, Basel

 

4月15日(水)

吉岡次郎室内楽シリーズV 「アンサンブル・バジリア〜吟遊詩人の歌〜」

19時開演、杉並公会堂小ホール

 

お問合せ:03−4477−5654(T&N企画)

10年目のガイジン

ベルン州立音楽学校で教えはじめてから来年で10年になる。自分でもびっくりだ。

この10年、音楽学校を通して実に様々な国のルーツを持つ子どもたちと出会った。スイス、フランス、イギリス、ポルトガルといった西ヨーロッパの国々はもちろん、ロシア、コソボ、アフガニスタン、エリトリア、ブラジル、ペルー、オーストラリア、タイ、ベトナム、韓国、そして日本。彼らは100パーセントAusländer(外国人)であったり、半分だけスイス人だったりした。みんなとりあえずの共通言語であるドイツ語を話し、この国で「ガイジン」の私も彼らとドイツ語で話す。自分がアフガニスタン出身の生徒の父親とサシで口論するとは思ってもみなかったし、ペルー出身の子に南米のクラシックギターのレパートリーを教えることになるとは考えてもみなかったけれど、 レッスンで1対1で向き合ってみるとみんなすごくいい子達だった。それぞれのタイプは違うのだけれど、なんというか皆とても子どもらしいエネルギーを持っている。たまに、おおそういうアプローチでいくか笑!と教えている私の方が教わることもあったりして、笑ってしまう。 そしてここまでくると「国」についてなどどうでもよくなってくる。教えていくうちに「〜人の何々君」という概念は消え、ただの「何々君」になる。私が見ているのは彼らの「国」ではなく、彼ら「自身」だ、という当たり前のことに気付かされる。

そのむかし、私は大学で「異文化交流」「多文化共生」について学んだ。そのとき教授から「相手をすべて理解できるとは思うな。」と言われたことがあった。当時の私には意味がよくわからなかったけれど、今この言葉が自分にとってけっこう役に立っている気がする。音楽学校で子供たちを教えていると、私がレッスンでみているのは彼らのほんの一部でしかないのだ、とつくづく感じる。私が彼らに教えられるのはギターだけで、そのバックグラウンドを知り全て理解することは私にはできない。でも、それでいいんじゃないかと思う。国が同じであろうとなかろうと、相手を全て理解できるなどと思うのは、ある意味「おごり」である気がする。

ときどき「国」ってなんだろう?と思う。手にとったり目で見ることはできないけれど確実にある、不思議なヴェールのようだ。私自身この国に来て以来、ずいぶんこのヴェールにお世話になったり、逆にぐるぐる巻きにされたりした。ごく簡単な日常生活の中でも、この国では私が日本から持ってきた「常識」はそのまま通用することの方が少ない。自分と自分の国が否定されていくような気がして悲しくなったりもしたが、最近ふと、本当はそういうことではないんだ、と思いついた。この国の人たちは別に私や私の国を否定しているわけではない。とりあえずお互いの持っているものが違っていて、でも一緒に生きていくために「じゃあどうしようか?」ときいているだけなのだ。だから私は「私の国の常識」ではなく「私のしたいこと」をできるだけ具体的に相手に説明していかなければならない。面倒くさいけどこの作業をやっていくうちに話がだんだんスムーズになっていった。それに、私が「日本では〜」などと強く言うとき、それは往々にして自分より大きな存在の「国」を盾に、そこにすがりついていくことしかできない自分の弱さを隠そうとしていることが多い。目の前にある問題を自分ではなく「国」や「文化」のせいにするのは簡単だ。でもそれでは何も解決しないし、何も生まれてこない。相手がみているのは私の国やバックグラウンド云々ではなく、今この瞬間に私がとる行動なのだ、と気がついたとき、何かがストンと落ちた気がした。

何の縁があってかスイスという国でガイジンの私からギターを教わることになった生徒へ。あなたはギターというめっちゃ良い楽器を選びました。おめでとう。それについては先生は全力で教えます。いろいろ教えてくれてありがとう。これからもよろしく。

楽譜のかたち

ギターを弾いていると、いろんな「楽譜」に出会う。クラシック音楽で広く使われている五線譜、ポップスやジャズで使われるコードネームとその指板図、アコギあるいはリュートのために数字やアルファベットで書かれたタブラチュア(TAB)、私が知らないだけで、たぶん他にもいろいろあるのだろう。

いろんな楽譜が使われるのはそれぞれにメリットがあるから、ということは言うまでもないが、たまに同じ曲を弾くとき別の種類の「楽譜」に置き換えて演奏してみると、自分の頭の中がそれまでとは違った反応をして、面白い。

例えばダウランドのファンタジアを五線譜で弾くときとタブラチュアで弾くときでは何かが少し違う。タブラチュアはシンプルだ。弦と同じ数だけ引かれたラインに、左手が押さえるフレットの位置がアルファベットで書かれているだけで、シャープもフラットも無い。五線譜と比べるとその情報量はおそろしく「少ない」。ただ、すこーんと抜けているぶん、頭もシンプルになる。長いパッセージを表しているのがちょこんと一列に並んだ文字だということに、はじめは驚いたがしばらくするとなんだか可愛く感じてくる。そして、今まで情報が多すぎて見えなかったものが浮かび上がって来たりする。書かれているのが特定の音ではなく文字なのでカポタストを使った移調にも対応しやすく、なんとなく頭が柔軟になってくる。弦を表したライン上に文字が並んでいるのだから、理論上は右手の撥弦も間違えにくくなる。ある意味気分もおおらかで寛容になる(気がする笑)。そしてもう一度五線譜に戻ったとき「あぁ、そうだったのか」と思う。

生徒に教えるときも、例えばヴィラ・ロボスのプレリュード1番などは部分的にTAB譜で書いてみるとシンプルで取り組みやすい。ブローウェルのシンプルエチュード6番を教えるとき、はじめに右手の動きだけを少し練習しておき、その後あえて楽譜は見せずに各小節ごとの左手の指の位置を指板図にして並べて書いてみる。そうすると、1つ指の位置が変わるだけで世界がガラリと変わる驚きを、実感を伴って理解できていくように感じた。最終的には五線譜に戻って取り組んでいくのだが、でもメリットがあるなら同時に他の手段も使っていいじゃん?と思った。使えるものならなんでも使ってみたらいい。

たぶん、楽譜は地図みたいなものなのだと思う。目的地と手段によって必要な情報は違ってくるし、大抵ベストだと思われる地図で表されているけれど、たまに同じ場所について別のタイプの地図で見てみるのも悪くない。

地図は丸い地球を平面に表した。楽譜は見えない音を記号にした。すごいファンタジーじゃないか。

つなぐとはなつ

オペラで演奏することになった。友人の代役でベルン市民劇場(Stadttheater Bern)にて行われるロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」に2公演だけ出演する。

撥弦楽器であるギターを弾く私にとって、オーケストラはちょっぴり憧れの世界だ。よく「ギターは小さなオーケストラ」と言われる。でもヴァイオリンのように「ふくらんでいく長い音の響き」が出せる楽器が揃うほんとのオーケストラと比べたら、音の長さではかなわない。だから今回オーケストラの中に入って演奏したら、自分はその長い響きに感動するんだろうな、と思っていた。しかし今回実際に私が感動したのはオーケストラの「美しく伸びる音の響き」ではなく、むしろ彼らの「音の切りかた」だった。

初めて歌手とオーケストラのリハーサルで演奏した時、指揮者が曲の中で数か所、オーケストラの音をパッ!ととても短く切ることに驚いた。「なんで?」と思った。確かにそこは歌手が歌の途中で即興的なパッセージ(経過句)を歌う部分で、オーケストラの音が歌を覆ってしまわないよう、ギターのパート譜にも短い和音の後に休符が書かれている。でも正直なところ(そこまで短く切らなくてもいいんじゃないの・・・?)と思ってしまった。自分が演奏している際には不自然にすら感じて、なんとなく消化不良な気持ちのまま、自分が弾かない残りの曲を指揮者を見ながら聴いた。すると、おそろしく明快なことがわかった。 

オーケストラが音を止める部分は、短いけれどカデンツァ的で歌い手にとっては見せ場である。聴いていると再び同じような部分がきた。それまでずっと歌手に寄り添ってきたオーケストラがその音をある意味無情に、相手をつきはなすような「勢いを持って」切った。するとその瞬間、その場に唯一残った歌手の声がオーケストラの全エネルギーを受け止め、まるで解き放たれた一羽の鳥のように一気に空間を突き抜けたのだ。愕然とした。それは私が考えていた「歌を支えようとする」音の終え方より、相手の本当の魅力を際立たせるためには明らかに効果のある方法だった。「音が飛ぶ」ってこういうことなんだな、と思った。オーケストラの勢いを受けた歌手の声が突然生み出された無音の空間に真っ直ぐに響いた。同じ歌が、伴奏者の音の切り方次第でこんなに美しく感じられることに、脱帽した。

本来ギターを弾く自分は、勢いよく切る音のカッコ良さや、そのエネルギーが歌い手を支えることなどは当たり前のようにわかっているつもりだった。でも今回のオーケストラの強烈なそれを聴いて、なんというか、自分自身がぽこーんと放たれたような気分になった。

長い長いリハーサルが終わった帰り際、オーケストラのメンバーの一人が私を見てひと言、“Brava.“と言った。正直自分の演奏の何がBravaだったのかわからない。でも彼が呟くように言ってくれたこの言葉が嘘にならないよう、私は私の楽器で出来ることを、最大限やっていこうと思った。

きのこと通奏低音

スイスの秋はキノコの季節だ。森にたくさんのキノコが生える。森に一歩足を踏み入れる。はじめキノコは見えない。目を凝らしていると少しずつ見えてくる。一つひとつ見つけていくうちに、森じゅうにキノコがいることに気づかされる。図鑑を手に確実に食べられそうなものだけ採り、家に帰って調理する。ソテーにしたり、ポタージュスープにしたり、炒めものなどにして食べる。とても美味しい。

キノコは不思議な生き物だ。姿は見えなくてもその菌糸は森の地面全体に張りめぐらされており、ある条件が揃うと「キノコ」としてぽこっと地上に姿を現すらしい。そう考えると、私たちが「森に入る」ということは、「きのこの中に入る」あるいは「きのこの上に立つ」ことでもある、と言えるかもしれない。

いま、スイス在住でストラスブール音楽院・フランクフルト音楽大学で教鞭をとられたリュート奏者今村泰典先生に通奏低音を習っている。通奏低音とは主にバロック時代、メロディとバス音(と数字)のみが書かれている楽譜から伴奏者が自分で相応しい和声を見つけだし、それらの音を繋げて独自の伴奏を作り出し実際に演奏していく(リアリゼーション)手法で、メロディを美しく豊かに支えるために不可欠な技術である。私は以前今村先生がカウンターテナーのMaarten Engeltjes氏を伴奏されているCDを聴き、その中にあったパーセルの伴奏に「薔薇」や「蛇」を連想するモチーフが織り込まれていることに感動し、この技術を学びたい、と強く思った。ちょうどこの11月歌とギターでパーセルを演奏するので、そのリアリゼーションについて先生にご指導頂くことにした。PCで楽譜を書き、そのデータをメールで送ってチェックして頂くやりとりが続くので、冗談まじりに「通奏低音の通信教育」と呼んでいる。

まず3段の譜を作る。一番上にト音記号で旋律を書き、一番下にはヘ音記号でもともと楽譜に書かれてあるバスラインを書き、その間にハ音記号でリアリゼーションを書き込んでいく。「ギターの実音にはハ音記号が適切ですからリアリゼーションはハ音記号で書いて下さいね」と言われた時、「マジですか汗」と思ったが、不思議なものでこれは書いていくうちにだんだん慣れる。

はじめ低音に書かれた「数字」を読むのが面倒で、「コードネームだったらわかるのに」と思った。なので先生に内緒で楽譜にコードネームを書き込んでみた。確かにハーモニーはすぐにわかったのだが、書かれたコードネームはオンコードのオンパレードになり、ごちゃごちゃして明らかに読みづらかった。しばらく眺めて、「・・・やっぱり数字でいこう」と思い直した。

通奏低音の基本はバス音の上に適切な和音をのせていくことから始まる。一番低い音から和音が生えてくるというのは、なんだかキノコみたいで面白い。そこからメロディのじゃまをせず素敵だと思った音を繋いで対旋律を作っていく。ただ難しいのは、正しい和音の音であっても前後との関係によって禁止される進行があることだ。

先生に、「こんなの見つけました!」と提示する。するとあっさり「あ、それ禁則ね」と言われる。「なんでこれが禁則なんだ?」と思うのだが、でも確かに実際に弾いてみるとどこか違和感があることに気がつく。なんというか、「綺麗でない」のだ。「禁則」と書くと縛られている感があるが、それをやるとあんまり綺麗じゃないですよ、という、長年にわたる伴奏者達の経験から生まれたアドバイスなのだろうな、と思った。キノコだって、なんでも食べられるわけではない。

たくさんの禁則にぶつかりながら、ふと、先生は一体どのようにしてリアリゼーションを作られていくのだろう、と思った。先日ご自宅におじゃましたとき、先生はしばらく楽譜を眺められた後「・・・こんな考え方もありますよ」とパソコンでカタカタと音符を書いていかれた。1小節ごと、1音入れるごとにふっと立ち止まって前後の音との流れをみる。その様子は、変なたとえだが私にはキノコ採りのように思えた。森の中に入って、一歩ずつ足を地面につけるたびに周りを見る。次の一歩を進むと、それまで見えていた角度が変わる。同じ風景が違ったものになる。ゆっくりあたりを見まわして、また一歩進めてみる。ずっとそこにいたのにさっきまで見つけられなかったキノコが、そこに立っていたことに気がついてびっくりする。もう一度後戻りしてみる。焦ってただ直進していたときには見えないものが見えてきて、どの可能性を取るかじっくりと考えて進路を改めていく。先生の作業を拝見して、私はそんなイメージを持った。そしてこの作業をごく自然に、流れるようにやってのけてしまう今村先生に深く感動した。

通奏低音は永遠に終わりのない森のようにも感じるが、なんだか楽しい。こんなこと書いたら先生は「全然違いますよ」とお笑いになるかもしれない。あくまで、今の自分の段階ではそう感じられるのだと思う。ずいぶんと深い森に入ってしまった気がするが、もう少し、この素敵な森をさまよってみたいと思った。

 

ナイーブな音楽で

来月、2人のスイス人作曲家による、ギタートリオのための作品を弾く。ひとつはベアート・フューラー(Beat Furrer)という人の「...y una canción deseperada (...そしてひとつの絶望の歌)(1986)」という作品で、このタイトルはチリの詩人パブロ・ネルーダの詩集「20の愛の詩と1つの絶望の歌」からとられている。もうひとつはアルフレッド・シュヴァイツァー(Alfred Schweizer)という人の「Das Jahr in naiver Musik(ナイーブな音楽でつづる一年)(1989)」というシリーズ作品で、その名の通り月の名前があてられた作品が12曲あり、私が弾くのは「März(3月)」。2曲とも私は知らなかったのだけれど、今回の企画者から「とてもいい曲なんだよ」というメールをもらった。そうなんだ、じゃあやってみよう、と思いOKした。

「そしてひとつの絶望の歌」は3人それぞれ四分音などを使い別々のチューニングで演奏する。ハーモニクスがたくさん出てきて、「3フレットから6ミリ右」とか「2フレットから5ミリ左」を押さえて出すよう指示されている。なんだか深海魚になったみたいな気になる曲だな、と思った。実際に合わせてみると違和感なく聴こえ、そして妙にクセになる曲だった。ちなみにタイトルのネルーダの詩については言うまでもないことなのだろうが、ネット上でこの詩集の15番目の詩(Poem15)の日本語訳を読んだ時、あまりの美しさに呆然としてしまった(ああでも私が弾くのは絶望の歌のほうだから、と自分に言い聞かせ、ようやく我に返った)。そして、自分がこの曲に対してイメージしていたものが全然違っていたことに気づかされた。

「3月」はミニマルミュージックの手法を使っている。16分音符の細かなモチーフが繰り返されながら少しずつ変化していく。はじめてこのモチーフを弾いたとき、「あ、綺麗だ」と思った。なんというか、さざ波のようだった。この作品はギター3台のための曲だが、楽譜は一つしかない。見開き4ページのスコアには左側に和音を含んだモチーフ、中央2ページに16分音符のミニマルなモチーフのグループ、右側に息の長いメロディ(歌)のモチーフが5種類ずつ用意されていて、演奏者はそれぞれ好きな場所から入り、別のモチーフへと移動して行く。どこをどう通って弾くか、演奏家同士あらかじめ約束しては「いけない」。演奏家に託されたこの部分的な「あそび」はチャーミングかつスリルを伴う。この曲はまだ合わせていないのでどんな全体になるのかわからないが、毎回自分で「さて、今日はどこに行こうかな」と考えるのは楽しい。そして何より和声が綺麗だ。

二つの作品のタイプは全然違うが、どちらも弾いていくにつれて「こういうのも、ありだよね」という気分にさせられる。いろんな考えがあるよね、と気付かされる。自分一人で想像できることって、たぶんどこかに限界がある。だから時々その境界線をぱかっと外してくれるものに出会えるのは、もしかしたらとてもありがたいことなのかもしれない。

リロンちゃん

理論の本が好きだ。

一番好きなのは『ポピュラー音楽のための基礎理論&問題集〜新音楽理論ワークブック』(北川祐・編著、株式会社リットーミュージック)で、そのむかし江部賢一先生に「ポピュラー理論について学びたいんです」と言ったとき「この本を買いなさい」と勧めていただいた。1994年に初版が発売されてからロングセラーとして愛されてきた本だそうで、私が持っているものは2000年に発刊された第2版(上下2冊)。基本的な楽典から最終的には教会旋法(チャーチモード)を含む「コード・スケールの考え方」が学べる。簡潔かつ明解な解説で、各テーマの終わりに出てくる問題のページが素晴らしい。ストイックなまでにひたすら音符やコードネームを書き込んでいくのだが、自分で書いていくうちに、だんだん意味やパターンが分かってくるようにできている。また、どんなにややこしいテーマでも問題のページは片面1ページのみ、そしてページをぱっとめくるとすぐに答えが確認できるのも嬉しい。しかも時々ギタリスト用の問題も出てくる(←コードを「記譜音を最上声部として1〜4弦を使ったフォームで指板上に構成し、その構成音を音符で記入しなさい」とか)。スケールの指板図も入っている。答えをちゃんと書き込めるスペースが用意されているので無理なく書き込めるし、書き込んだ後は「自分はここまでやったぞ感」がけっこう出てくる。長いコードネームや教会旋法のしくみがわかった時、嬉しさのあまり大声で叫んで走りたくなった。

この本はワークブックだったが、読み物もいろいろある。古くからの知人でギターソロ曲も書いてくれた作曲家・侘美秀俊氏はなんとマンガで音楽理論について説明している。『マンガでわかる!音楽理論』(侘美秀俊・監修、坂本輝弥・マンガ、株式会社リットーミュージック)という本で、保育士を目指す女子大生「リロンちゃん」と、自称作・編曲家の「センセー」とのお話でストーリーが進められていく。完全8度を転回すると1度になる、ということに気づいたリロンちゃんに対するセンセーのセリフがすごい。「ロマンチックだろ?オクターブ中最も離れていた音たちが転回によりすぐ近くに!!遠いようで近いまるで君と君の友人のようではないか!!(本文より引用)」その後センセーは速攻リロンちゃんにツッコミを入れられてしまうのだが、言いたいことの意味はすごくわかる。そして、たとえがどうであれ理論を熱く語れるっていいなぁと思った。彼は他にも様々な理論書を執筆していて、読みやすい。ちなみに表紙のイラストでリロンちゃんが弾いている楽器はギターだ。

本ではないが、理論を深く理解し和声にいのちを与え、音を生きもののように扱える人といえば、私にとってはやはりギリア先生だ。作品の中にある一つひとつの音が劇場のように役割を持って配置され、生き生きと「事件」を起こしていく。時に大げさな表現で生徒に語るが、きちんと理論に基づいているので説得力がある。「いいかナナ、この曲では様々な音がおまえを振り落そうと襲いかかってくる。だがお前はこの核の音にしっかりつかまって進むんだ。振り落とされるんじゃないぞ!」と言われたことがある。和声進行が複雑に変化していくからどの音に重きを置いて、どうやって他の音とバランスをとるべきか、という話だったのだが、なんだか「人生みたいだな」と思った。音楽理論から学べることは、理論にとどまらない。

奥の深い音楽理論の世界で、私が知っていることはまだまだほんの一部だ。だからこれからもいろんな理論の本を読みたい。そしてこのドキドキワクワクな世界を自分なりの言葉で、生徒たちに伝えていきたい。 

侘美秀俊氏のその他の著書
https://www.amazon.co.jp/l/B004LUS0HK?_encoding=UTF8&redirectedFromKindleDbs=true&rfkd=1&shoppingPortalEnabled=true

La Guitarra Callada(静寂のギター)

おとといステファノ・グロンドーナ氏に会った。ブルクドルフというスイスの街で朝の10時半からコンサートがあり、早起きして行った。十数年ぶりに氏の演奏を聴いて感じたことは、彼の演奏が素敵なのはその特殊な爪の形がどうというよりも、一つひとつの音の響きが自分に帰ってくるのを待っていられる人だからなんじゃないかな、ということだった。たとえそこが教会のようには響かない会場であっても、それが「響く」ことをきちんと解っていて、それが自分に返ってきたときのバランスに合わせて次の音を出す。だからとても自然で、聴いていて気持ち良い。素晴らしい演奏だった。プログラムにはフロベルガー、スカルラッティ、グラナドス、そして武満徹の「すべては薄明のなかで」が入っていた。

武満の演奏が終わった時、一番前に座っていたおばあさんが隣のおばあさんに「へんてこな曲ね」と言った。決して意地悪で言ったのではなく、彼女は素直に自分の感想をとなりにいるお友達に伝えたかったのだと思う。だからないしょ話のようにできるだけ小さな声で喋ろうとしたのだけれど、息のたくさん入ったその声は会場中に聞こえてしまった。一瞬どきんとした。会場内で日本人は私一人だったこともあるのかもしれないが、とても好きな曲だったので、胸がぎゅっとするのを感じた。すると、私のとなりにいたオランダ人ギタリストがこれまた会場中にきこえる大きな声で「いや、タケミツは素晴らしいよ!」と言った。そして、起こったのはそれだけだった。私には、パンチパーマで大きな体の彼が普段より大きく感じたとともに、ああ、ここは違う意見を持った人が共存できるところなんだな、と思った。なんだか、すごく印象的だった。外から聞こえる鳥のさえずりとギターの音色が気持ちよかった。曲と曲の間で、グロンドーナ氏はにっこりと笑っていた。

終演後あいさつに行くと、氏は「I remember you!」と言った。すごい記憶力だな、と思うとともに、素直に嬉しかった。

翌日購入したCDをイヤホンで聴いた。“La Guitarra Callada(静寂のギター)“というタイトルで、中の文章も素敵だった。私はモンポウの「プレリュードVI」が一番好きだと思った。CDの、一人で何度でも聴ける贅沢と、空間全体がつくる一度かぎりの生演奏。どちらも素敵だと思った。そして、ほどよく皺の入った氏の写真を眺めながら、歳をとるってそんなに悪いことじゃないな、と思った。

十数年ぶりに会うことのできた氏と、その氏を通して会えた人たち。心から感謝したい。

ながい話

どうもギタリストは「好きになったらなんでも自分の楽器で弾いてみたくなる」傾向があるようだ。

「これをギターで弾いちゃうのかー!?」と思うような作品も、弾いてしまう。そこには彼、彼女の作品に対する並々ならぬ愛があり、「そうきたか!」と思わず膝をポンと叩きたくなる絶妙なアイデアに脱帽、そして感動する。

この傾向は今に始まったことではなく、昔からたくさんのギタリストが行ってきた。たぶん、行わずにはいられなかったのだろう。

そして、そういった作品も聴いて、新たにインスピレーションを受けた作曲家が今度はギターのための作品を書いてくれるようになった。

だから今、クラシックギターのレパートリーは幅広く、豊かだ。

オリジナルがギターのために書かれていない作品をあえてギターで弾く、とはどういうことだろうか?単純なことだが、まず、好きじゃなかったら弾かない。その作品を真剣に愛しているからこそ、取り組むのではないだろうか。

また、ひとつ興味深い話を聞かせてもらったことがある。以前現代の作曲家の方々が集まる会に参加させて頂いたことがあった。その中で一人の作曲家の方が、「ギターは(作曲家にとって)敷居の高い楽器でもあるんですよ」と語られた。どういうことかと言うと、ギターはこれだけ世間に広まっている楽器であり、その音に対するイメージは容易に出来るが、いざ作曲となると、6本の弦を19フレット(あるいはそれ以上)まで使えて、弦ごとのチューニングも変更可能であり、運指や特殊奏法など「実際に自身がギターを弾けないと書けない」要素が他の楽器の作品を書く場合と比べて多い、ということらしかった。

これは大変なことだと思った。ギタリストも作曲家も絶対にお互い助け合わなくちゃ!と思った。もし作曲家の方の頭の中で鳴っている音がギターの音であるのなら、ギタリストとしてはそれだけでものすごく嬉しい。だから「こんなことを考えているんだけど」と言われたら、ギタリストは必死に考えて、「こんな可能性もありますよ!」とアイデアを渡すと思う。

ギターという楽器の可能性を本気で信じている人達の、地道で笑っちゃうくらいひたむきな取り組みは、これからも続いていくのだと思う。そして私は、その長い歴史の一部でありたいと思う。

大きな木

来月母校のゼミで講義をします。私が学んだのは「早稲田大学教育学部教育学科社会教育専修」というところでした。長い名前ですが、ざっくり言うと「学校以外の教育」について考える専修で、「生涯学習」や「多文化教育」といったテーマの、私はほんの一部を学びました。不思議なもので大学を卒業してからの今の方が、このテーマについて考えることが多くなりました。

講義ではスイス・ベルン州立音楽学校のJEKI(イェキ)というプロジェクトについて紹介します。社会的に不利な環境にある子供たちを音楽のレッスンを通してインテグレーションさせていくプロジェクトで、これに関しては音楽学校が制作した紹介ビデオや、5年間にわたりベルン大学がその効果を調査した研究結果も出ています。プロジェクト全体を見渡すにはこの資料で十分なのですが、でも今回日本でこれらを紹介しただけでは何かが足りない気がしました。「外国で成功したプロジェクト」は、そのままのかたちでは他の国には導入できません。「国が違う」ということは長年培ってきたシステムも違い、そこで暮らしている人々のメンタリティもニーズも違います。一つのプロジェクトをみて、その中で良いと思ったアイデアを、自分たちが受け入れられるかたちに作り変えていく作業が必要になります。

なので今回お話させていただく内容は、プロジェクトの概要と、実際に自分がプロジェクトに関わるようになって感じたこと、そして全体ではなく、ここの一部分のこの要素はもしかしたら日本でも活かせるんじゃないか?といった、なんとも個人的で部分的なものです。講義というには至らない内容かもしれませんが、今の自分にできる範囲で紹介させていただこうと思っています。

写真の絵は平山郁夫「熊野路・古道」のレプリカ、数年前大学でお世話になった方から戴きました。私は学生時代キャンパスツアーガイドをしていたので、大学図書館にあるこの巨大な絵の下で、ツアーにいらした方にこの絵についてお話させて頂いていました。とても好きな絵だったのですが、その地肌はつるつるしていたのか、それともざらざらだったのかが、今どうしても思い出せません。森は全体を見なくてはいけないそうですが、来月大学に行ったら、遠くからではなく、ものすごく近くまで行って、レプリカでは見えないその地肌を、しっかり見てこようと思います。

 

トリ ヲ ハナツ

世田谷美術館での公演「かごの中の鳥」のチケット予約が開始した。ギターとヴァイオリン、そしてダンスによるプロジェクトで、「美術館」という「まもられていると同時にとらわれている空間」に音楽と踊りで空気の振動を与え、一瞬「鳥」を解放する、というコンセプトだ。今回の公演では同美術館で並行して造形ワークショップが行われる。「トリヲハナツ」というタイトルのこのワークショップ、はじめは「鳥かご作ろう」というタイトルだった(「雪だるまつくろう〜」みたいで楽しそうじゃん?とか思って提案してみた)。でも、今回ご一緒するダンサーの上村なおかさんと、ワークショップを担当されるNPO法人「まなびとくらし」代表・内野徹さんとの対談を通し、私が作りたいのは「カゴ」ではなく、実は「トリ」の方だったんだ、ということに気づかされた。「お三方が描く世界と別の次元で並行する世界のトリを作れたらいいなーと思っています。(内野徹氏コメント)」

「別の次元で並行する世界」って、いい言葉だな、と思った。クラシックギターはひとりで演奏できてしまう楽器である。それはそれでとても素敵なことなのだけれど、ときどき別の世界のそれぞれ独立した活動をしている人たちと共同作業ができるのはやっぱり嬉しい。知らない世界を見せてもらうのは勉強になるし、ワクワクする。

考えてみたらギターって鳥の巣箱みたいなカタチだ。外から一番見える表面板そのものと、一番見えない表面板の裏に、楽器の音色を左右する最大の秘密が隠されているギター。4月、私はこの箱からどんな鳥を放とうか。


「かごの中の鳥」公演詳細(3回公演)
4月20日(土)18:00
4月21日(日)13:00
4月21日(日)16:00

https://www.setagayaartmuseum.or.jp/event/detail.php?id=ev00890

公演チケット予約:オンライン予約(https://www.quartet-online.net/ticket/nightshade)または世田谷美術館03-3415-6011 (10:00-18:00月曜休。ただし月曜日が祝休日の場合は翌火曜日休)にてお電話でもご予約頂けます。

 

「トリヲハナツ」ワークショップ詳細

https://www.setagayaartmuseum.or.jp/event/detail.php?id=ev00891&fbclid=IwAR2SlTuT24g4z8GRPEa804O...

ワークショップ申し込み先:nightshadeconnect@gmail.com または世田谷美術館03-3415-6011にてお電話でもお申し込み頂けます。

Go! Go! GUITAR

『Go! Go! Guitar』というギター少年&少女のための月刊誌が休刊になる。株式会社ヤマハミュージックメディアから20年間にわたり出版されてきたアコギ(アコースティックギター)&エレキ初心者向けの雑誌で、この雑誌が創刊された当時、ちょうど私はこの会社にバイトとして拾ってもらい、J-Popの耳コピなどの仕事をしながら採譜の仕方やコード進行その他数多くのことを学ばせて頂き、それはそれはお世話になっていた。この雑誌が休刊になるのは寂しい。

『Go! Go! GUITAR』2代目&5代目編集長として12年間この雑誌と関わってきたステキ女性はやしあつこさんの言葉を以下引用する。「〜でも、楽器を世界にむけて作って売ってるYという会社ですし、絶対に入門者向けの媒体が持つ使命があるはず!と信じてしつこく『Go! Go! GUITAR』という生き物をなんらかのスタイルで蘇生させられるようにチマチマこつこつやっていきます。(彼女のFB投稿より)」

人生何がどうなってギター、そしてクラシックギターにたどり着くかわからない。バーゼル音楽院に留学して入ったオスカー・ギリアクラスのギタリスト仲間達と「なんでクラシックギターを始めたか?」という話になったことがあるが、「子供の頃エレキギターがやりたい、って親に言ったら『まずはクラシックギターから始めなさい』って言われて、気がついたらそのままになっちゃったんだ。あっはっは!」と笑いながら語るギタリスト男子は結構多かった。結局みんなジャンルに関係なくギターが好きになっちゃったのね笑、と思うと同時に、この人たちがもしはじめにエレキとか他のジャンルのギターに魅力を感じていなかったら、いまこの素晴らしいクラシックギタリスト達は存在しなかったんだな、とも思った。

クラシックギターもフラメンコギターもアコギもエレキも、決してジャンルごとにバラバラに生きているわけではなく、お互いにちょっとずつ影響しあっている気がする。クラシックギター作品の中にもエレキの要素は入ってくるし、エレキギターでクラシックギターのレパートリーから速いフレーズを弾くことがカッコいいと思われることだってある。お互いの垣根が低い、というのはギターの強みかもしれない。演奏している人自身が他ジャンルに寛容なのは、ギターが発展していくなかでずいぶん大事なことだったんじゃないかな、と思う。そう思うと、近い将来「ギターを始めたのは『Go! Go! GUITAR』を手にしたのがきっかけで」なんて言うクラシックギタリストが現れても、そんなに違和感ないかもしれない。

何事もきっかけがなくちゃ始まらない。静かにアツい未来のギタリストのためにも、「入門者向けの媒体が持つ使命」を持って再びこの「生き物」が蘇ることを心から祈っています。

https://www.ymm.co.jp/magazine/guitar/

小さな世界

ベルン州立音楽学校のギター講師は多国籍だ。クラシックギタリストは8名いて、ドイツ語圏スイス出身者が1名、フランス語圏スイス出身者が2名、イタリア人、ペルー人、レバノン人、チェコ人、そして私が日本人で1名(ちなみに音楽学校全体では現在136名の講師が働いており、アジア人は私も含め5人いる)。毎回ゼメスターのはじめにギタークラス講師だけの会議があり、それぞれが対等な立場で意見を出し合う。 そこでは年齢も、性別も国籍も関係ない。お互いをリスペクトしながら相手と異なる意見でも臆することなく言うことができるこの環境を、とても「大人だな」と思った。世界は広くて、一つじゃない。全然「同じ」じゃない。たった8名のこんな小さな世界でも、一人ひとりのバックグラウンドはまるで違う。そういうとき、この「違う人」たちが「対等な立場で話せる環境」がとても大切な気がする。そしてこの一定のニュートラルな環境がうまく作られると、一人で考えていたときよりずっと面白いアイデアが生まれる気がする。今月ギタークラス合同で “VielsAitig“ というコンサートを行う。Vielseitig(多様な)とSaite(弦)という2つの単語をかけ合わせたタイトルで、イタリア出身の同僚が考えた言葉。新しいタイトルの合同プロジェクト、素敵なものにしていきたい。
http://www.konsibern.ch/veranstaltungen/veranstaltungskalender/

とまり木コース

「大人向けの講座を作らない?」と音楽学校のセクレタリーにきかれ「Neues Leben für die Gitarre!」という講座を作った。「もう一度ギターに命を吹き込もう!」みたいな意味で、昔ギターを習った、あるいは弾いたことがあり、何らかの理由でやめたけれど、もう一度ギターを弾いてみたい、という人を対象にしている。3〜5人のグループで回数は4、5回。ジャンルの違った2つの作品を提示し、それぞれができることを選んで一緒に演奏する。途中ごく簡単なテクニック練習も含める。このコースの目的はアンサンブルグループを作ることではない。回数も5回までとし、それ以降は次のコースを続けてもいいが同じ作品は扱わない。「ギターをもう一度やってみようかな?」と思った人が限られた時間の中、小さなグループの中で弾いてみて、「じゃあ(次は)どうしたい?」と考えるきっかけに(つまり「とまり木」のような存在として)使ってくれれば良いと思う。まだ試行錯誤だが、自分の出来る限りサポートしていこうと思っている。だって、もう一度戻ってくる、っていうことは、ギターが本当に好きだってことでしょう?
http://www.konsibern.ch/angebot/kurse/musikkurse-fuer-erwachsene/

ウサギのFridolin(フリドリン)

スイス・ドイツ語圏でよく使われている子供向けのギター教本に「Fridolin」という本がある。対象年齢は6才〜11才くらいまで、はじめはやさしい童謡が中心だが、教えていく内容が段階的で構成がしっかりしている(メロディと伴奏がどちらも単旋律で書かれた小さな曲がたくさんあり、ここでアポヤンドとアルアイレを学んだ後、2声の練習、第2ポジションでの演奏、簡単なコード伴奏へと入っていく)。ところどころに出てくる基礎的な音楽用語の解説もきちんとしていてわかりやすい。2巻目に入るとソル・カルリなどクラシックレパートリーの美しい小品が入ってくる。同時にポップ調な作品もあるので子供たちはどちらも抵抗なく習得していく。直結でプロの道に行く子用ではないかもしれない。でも、「ギターって楽しいね」と思える子供たちの層を広げるには、こういった教材にも意味があるように感じる。
https://www.guitarwebshop.com/navi.php?qs=fridolin

Jeki

私がギターを教えているベルン州立音楽学校(Musikschule Konservatorium Bern)では、通常レッスンの他にJekiというプロジェクトが行われている。Jekiとは「Jedem Kind ein Instrument(一人ひとりの子供たちに楽器を)」という意味。ベルン市内の特定の地域の小学3・4年生を対象にしたプロジェクトで、1・2年生で歌を習ったあと、こども達は2年間、自分で選んだ楽器のレッスンを2人ないし3人という少人数グループで音楽学校の講師から受けることができる。財団の支援があり楽器は無償で貸し出される。

7年前から始められたこのプロジェクトに、今学期から私も加わることになった。新しく来た男の子に「どこから来たの?」と聞いたら、「お父さんとお母さんはエリトリアから来ました。でも僕の言葉はドイツ語です」と言った。「エリトリア出身のギタリスト」と聞いて何の違和感もなくなるまで、このプロジェクトが続けば良いと思った。

Jeki Bern紹介映像(英語字幕付):https://www.youtube.com/watch?v=3WfrlGvi4e0

ギターができるところ

夫のことを書きます(月1でブログ更新する、って宣言したのに書くことが思いつかないんだよ、と言ったら「じゃ自分のこと書いたら?」と提案して頂きました・・汗)。Christoph Borterはスイス人ギタリストで(2000年ベルギー「ギターの春2000」優勝)、ギターも製作します。作業部屋の壁にきちんと並べられた道具を眺めていると、ああ明らかに自分とは性格が違うな、と思います。一つひとつの道具を駆使して、たまに気が遠くなるような作業もして出来上がるギターを見るのは(側から見る分には気楽なので)ワクワクします。今年6月、スイスのBulleでスイス人ギター製作家による複数のギターの弾き比べコンサートがありました。彼のギターが一番良いと思いました。http://www.christophborter.ch/

ガット弦

IMG_2281JPG音楽学校の同僚ギタリストで素晴らしいウード奏者のMahmoud Trukmani氏が、ガット弦の心得を教えてくれました。「いいかナナ、はじめの一週間は幻滅するぞ。爪がボロボロになるし指の皮が厚くなるまで痛い。弾き方も変えなきゃダメだ。セット弦の中でたいてい1、2本は使えない。で、一ヶ月後にようやく自分はガット弦が好きか嫌いかがわかるんだ」とのこと。なんか、使う前から緊張しますが笑、自分の持っているトーレスモデルのギターChristopher Deanに張りました。ヴァイオリンの鉄弦をガット弦に張り替えた時のようなセンセーショナルな体験は出来ないかもしれないけれど、とりあえず一ヶ月試します。